amiさんのモノと私のstory〜後半〜
feminimalistサイトでは、素敵な暮らしをされている方をご紹介させて頂いております。
前回のお話で、ご自身の理想の暮らしについてお話をして下さいました、関西在住で3人の子供(中高生)たちと暮らすamiさん。
お子さんたちが独立されたら、早期リタイアされたご主人と旅して暮らすことを理想に掲げていたのですが、ご主人との突然のお別れがあり、モノとも決別を決意されたそうです。
後半は、実際に手放したものたちのお写真と共にお話を伺いました。
モノとの決別の転機
それは、とあるテレビ番組を見たことがきっかけでした。
私と同じように、未亡人となられた俳優の小林すすむ様の奥様が遺品を整理し、ほとんど処分され、
「悲しみが思い出になり前を向くことが出来た」
と語っておられるのを見た時に、ハッとしたのです。
亡くなったときのまま、時間が止まっている主人の部屋の、大断捨離を決行。
遺品であれ、なんであれモノはただのモノにすぎませんでした
部屋は空っぽ、心は満タンの状態へ
6年間、そのままにしておいた部屋。
亡くなった当時のままにしていたのは、現実を受け入れていなかったからだと思います。
物があることは、生きた証だと思っていたし、まだ匂いもかすかに残っていたので捨てることが出来ませんでした。捨ててはいけないような気がしていたのです。
前述のテレビで、遺品を処分された様子を見て、捨ててもいいんだと知りました。
遺品整理なんて、どうするのか誰も教えてくれないし聞くこともなかったので有難ささえ感じたほどです。
何から手をつけていいのか、迷いました。
まず、一番最初に着手したのは、私には全く興味のない彼の趣味のもの、愛用のゴルフ用品です。
それならば、すぐに捨てられると思ったからです。幸いにも娘が手伝ってくれたのであまり感情的にならず、ひたすらゴミ袋に詰め込んでいきました。
ところが、使っていたボールペンやネクタイ、カバンなどを捨てようとすると手が止まりました。
複雑な気持ちです。
まだまだ生きたかっただろうにと思うと、胸が締め付けられる想いに駆られました。
でも、主をなくした物はここに置いていても意味はない。そういう思いも生まれ、私の心はとても葛藤しておりました。
私が勝手に捨てられないと思っているだけで、物からしたら何の意味もなく、物自体には何の感情もない。
この先、使われることがないのは確かなのだから捨てるしかない。
そんな思いで主人のものを一つ一つ処分したのです。
今、その部屋は空っぽです。何もありません。
人生何が起きるかわからないとはいいますが、まさか自分の身にこんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした。想定外もいいところです。
主人の遺品を手放したことで
「部屋は空っぽ、心は満タン」になりました。
心が満タンになるって矛盾してるようですが、物を処分し空っぽになったことで思い出だけが残ったのです。
だから心がいっぱいになったのです。
自分のモノと向き合い、得た気づき
そして、その何もない部屋があまりに心地よく、そこから家中の断捨離をはじめました。
何もない部屋の爽快さを知るとやらずにはいられません。(子供部屋はやりません)
元々整理整頓が得意だったので、我ながらこんなにもたくさんの物をうまく収めていたなと、感心するほど大量のモノがありました。
全て記録していませんが、本当に色々なモノを処分しました。
洋服やバッグ、食器・雑貨や家具は売るほどありました。
捨てがたいものもありましたが、大好きなものだけ手元に残しました。
必要なのか、不要かもシンプルに考える
勘違いしてほしくないのですが、
「必要なモノ」とは、
生活必需品はもちろんのこと、
「心にとって必要なモノ」も入ります。
不要だからと言って、やみくもに手放すのではなく、その「モノ」自体が、自分にとってどうなのか今一度、考えてほしいと思います。
ボロボロのぬいぐるみでも、人からみたら捨てるに値するものでも、当人にとってはなくてはならないモノであったりします。
なくても困らないものが、ほとんどですが心の問題は尾を引きます。
自分が置いておきたいものは、置いておいて、不要なら処分する。
ただ、それだけのことだったのです。
結果、私が気づいたことは2点、あります。
・おしゃれと服の枚数は比例しない
・持っているモノの多さと豊かさは比例しない。
不要なモノはあるだけで、重たいエネルギーを放ちます。
それを手放すことでいいエネルギーが流れること、
身をもって体感しました。これに尽きるのです。
かっこよく言っていますが、本当に心が浄化されたのでした。
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